『メディア・バイアス』松永和紀著/光文社新書/2007

『メディア・バイアス』

うーん。
難しいなぁ。


基本的に、私たち大人が生きていくための処世術として、「発言した相手の意図を読み取れ」ってのがあると思うんですよね。
他人のした発言を鵜呑みにしないこと。
ただの言葉は信じないこと。
他人がどういう動機でその発言をするに至ったか、その背景を読むこと。
言葉を信じるのではなく、行動を信じること。


これができていると、例えば、壷やら印鑑やら売りたい悪徳業者に小金を巻き上げられることもないし、
友人ヅラ&親切ヅラして利用しようと近づいてくるずるい人に振り回されることもないし
不倫の恋だけ楽しみたい中年男にあたら若い娘っこがだまされることもない(笑)


他人に向かってわざわざ何かを発言して伝えようとするからには発言者の動機があるわけで、言葉で何を言おうとも、動機というのはその行動から見て取れる。
通俗な不倫の例で言えば(笑)、
「おまえだけだ。子供が卒業したら妻とは離婚する。お前だけを愛している」
な〜んて言いながら、いつまでたっても離婚する気配もない不倫男ですね。
若い女をつなぎとめたいという動機で一途な愛を語る。
でも行動を見れば、妻子と暮らすために家を35年ローンで買っていたりする。(=別れる行動をしていない。)
都合のいい耳障りのいい言葉だけを信じていると、いいようにだまされる。という、例です。


で、メディアというのはまさにソレ。
メディアの発する言葉には動機があります。
事実を書いていると見せかけて、動機がいーーっぱいあるわけです。
特に新聞社などは、“一般大衆の蒙を啓く”ために記事を書いているんでありますよ。(某新聞社の面接で聴いた言葉www)
「俺がすごいこと教えてやる。物の見方はこうだ。」ってなわけです。
で、同時並行して、「売れなけりゃ意味がない、言葉を通じさせるためには大声である必要がある」ってのもある。
広告が入らなきゃおまんまの食い上げだから、まず大声をはりあげるためにご飯をたくさん食べなきゃいけない。
なおかつ、大声で何かをいうときには、「〜〜かもしれないし、〜〜かもしれない。結論はわかりませーーん。」では誰も聞いてくれないから、「〜〜は、〜〜だ!」と声をはりあげないといけない。
加えて、「〜〜は、〜〜だから、危険だ!気をつけろ!!」ってなると、結構多くの人が振り向いて聞いてくれるわけです。


メディアはわかりやすい言葉を語る。何故ならそうしないと誰も聞いてくれないから、存在意義がなくなってしまうから。
だから勢い、記事は端的な事実よりもむしろ煽動じみたものになる。ヒステリックと言ってもいいかな。
「この食べ物は健康にいいです!!」「この食べ物は危険です!!発がん性が高いです!!」ってほうが聞いてもらえる。
そのほうが、聞く側が、あ、この食品を買おう、あ、この食品はやめよう、って選択がしやすいから。
「食事は好き嫌いなく、まんべんなく食べましょう。発がん性はあるけど、それは自然界の物質ならどれでもあるんですよ。」では、
「ふーん、だからどうなの?体にいいの、悪いの、どっち?はっきりしてよ!(イライラ)」っていうわけです。
もちろん、白黒はっきりした結論を求める側にも問題があるのだけれど、マスメディアってのは(業界紙と違って)わかりやすい言葉を使うべく義務付けられているわけだから、その存在自体に内包されている問題ともいえましょう。


で、この本、メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)は、そういうマスコミ報道の二元論を嘆いて、実際にあった問題点を取り上げて、科学ライターとしての立場から解説しています。
あるあるの納豆とか、白いんげん豆ダイエットの健康被害とか、みのもんたの話とか。
まぁ、メディア・リテラシーって言葉を学んだことがある人にはことさら目新しいことは言ってないのだけれども、耳に覚えのある過去の事件やブームを実際に取り上げて解説しているから、結構面白いです。
興味のある方は図書館で借りてみたらいいかも。Amazonだと1円から売ってるし。
で、私がちょいと聞き捨てならなかったのはここかな。

化学物質は量が増えれば影響が出るし、一定量を下回ればもう影響を及ぼさないというのが、毒性学の一般的な考え方です。これに基づいて、無作用量(無毒性量)を実験で求め、それを下回る量の中で化学物質を上手に使っていこう、というのが現代社会における化学物質の利用法です。(P84)
(中略)
結局、低容量仮説は完全否定されました。(P85)

ああ、だからか、と思った。
化学物質過敏症を単なる思い込みとプラシボの産物だとする学者の見解があって、なんでだろ?って思ってのだけど、毒性学ってのがベースにあるわけね。
毒性学だと、一定容量より以下は何も起こらない、ゼロサムの世界だから、人体に影響があるとされる一定容量よりはるかに下でも影響があるとなると、毒性学がひっくり返ってしまうのね。
ちなみに、化学物質過敏症をwikiで調べると懐疑的見解としてこんなことが載っている。(2010年5月現在。)

化学物質過敏症とされる症状については科学的・疫学的な立証を経たものは少ない。微量の化学物質が多彩な症状を引き起こしているとする客観的な証拠がなく、においや先入観により引き起こされていると考えられる[14]ことなどから、「化学物質過敏症」という名称自体が適当でないとする意見があり、主要な学会からはその診断名称を拒否されている[15][16][17]。また、化学物質過敏症は身体表現性障害の診断基準を満たし、心因性とする意見があり[18]、患者本人が精神疾患であることを認めず身体疾患であることに固執したり、種々の自律神経機能検査で異常を呈することもこれで説明できる[19]。

まぁずいぶん失礼な見解だなとは思うけど(笑)


でも同時に、

化学物質過敏症は、中毒、アレルギーとは異なる概念の疾患であるとされる。

わけだから、中毒やアレルギーの存在は認めているんだよねぇ。


アレルギーが認められるのにどうして化学物質過敏症は認められないのか・・・そのあたりがわからない・・・
誰か頭の悪い私に教えて・・・
アレルギーってのは、通常ならなんともないものにでも免疫系が反応してしまう、生物的なもんだよな?
昔は「気のせい」といわれてたことが、Igeとか血液で調べられるようになって、数値で出るようになった。
100人中99人が蕎麦では死なないけど、蕎麦を食って1人が死んだとする。
昔はなんか違う原因にされてたかもしれないけど、今は免疫学の発展で数値でわかるようになったから、学者にも存在が確認できるようになった。


んで、化学物質過敏症は、「先入観」なの〜?
科学的・疫学的な立証が少ない、イコール、存在しない&気のせい、なの〜?
宇宙人と同じく、今のところは存在が確認できないけど、現在過去未来永劫100%存在しないとも断的できないような気がするのだけどねぇ。
まぁ別にいいんだけど。
体に症状が出てヒーハー言ってる立場からすれば、アレルギーだろうがCSだろうが中毒だろうがラベリングなんてどうでもいい。治りさえすればいいのだけど。
でも気のせいにされちゃうと研究する学者がいなくなって治る方法が見つけてもらえないから困るなぁ。“化学物質アレルギー”でもなんでも、ラベルはどうでもいからさぁ。


まぁ難しいよね。学者さんが数値をよりどころにするのはわかるし。数値を出して客観的にしてくれないと「前世のカルマ」とか「体に溜まった毒素」とか心霊商法や民間商法が跋扈するから、まず疫学的な数値ありきで存在の有無を確認するのもまぁわかるんだけど。


ともあれ、この発言者(著者)の松永氏が、マスコミ報道のいい加減さに物申したいのはよくわかったけどね、動機として。
でもマスコミの成立意義(=大声で物を言う)の根本に関わる問題だから、切り離せないとも思うですよ。
私がこのブログを書いてる動機は・・・そうだなぁ、思考の記録を残したいってのが一番大きいかなぁ。
アフィリエイトもやらせてもらってるけどね。はてなの有料版のお金ぐらいが入れば嬉しいからw 280円な、ちなみに。28000円も買う人がいるわけないからもちろん赤字ですご安心を。
あとは、圧倒的にアンチ民間療法、アンチマルチ、ですw
ただでさえ生き難い思いをしている患者から金をむしりとるんじゃねぇよ。
今、マコモ風呂と羊水シャンプーでgoogle検索すると私のブログがトップに出てきて大変気持ちがいいです、やったぜはてな、ふははははははははははh